岩下祥子詩集『うさぎ飼い』

 岩下祥子詩集『うさぎ飼い』(発行:2020年11月30日、発行所:石風社)は、彫刻のような詩集です。それもブロンズのゴツゴツした肌触りのある、手のひらに載りそうで、それでいて全体像が見えない。どのように認識すれば良いのか分からない言葉達です。でもしっかりと形は見えるのですから厄介なのです。  私の理解はこうです。気兼ねなく大きく広げられた紙があり、そこにはたくさんの言葉が書かれているのですが、玄関の間口が狭く、その大きな紙は二つ折りに畳まなければ取り出すことができない。そこで問題となるのが、<私>はその紙に何が書かれているのかわからず、狭い入口から手を出すこともできず、どうやって二つに広げられた大きな紙を畳んで取り出してよいのかわからないもどかしい状況なのです。  もっと具体的に書くと、折り畳まれた短歌を寄せ集めたような詩です。短歌は音韻と言い換えてもよいです。例えば    ちがわない人と受話器越しに喋っていた    い。その唇はこの声の何秒前に発音して    いるんだろう。天井から見てみたい。部    屋は予想通り片付いているだろう。予告    しなくちゃ。火曜日の夜、上から覗きま 
   す。私が見たくないものは隠してください。                   注:最終行は句読点半角処理                詩「たまくらに」第1節  この詩片をひらがなだけで以下の表記させていただきます。    ちがわないひ…

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個人誌『風都市』第38号

 詩とは一体何のために書くのだろうか。書く目的などないのだろうか。ただ書きたいから書くのだろうか。読んでもらいたいから書いているのだろうか。瀬崎祐氏の詩を読んでいて、そんなことを考えていました。人それぞれに詩を書く理由は違うのでしょうが、この人はどんな思いで詩を書いているのだろうかと真っさらになって考えたくなったのです。  それだけ瀬崎氏の詩が何を伝えたいのか分からないということなのですが。それが瀬崎氏の詩の魅力なのだと思います。難解なら難解で理解できるのですが、そうではなくて、わかりやすそうで何かがずれているので勝手に読み手が勘違いをしてしまうというわかりづらい魅力です。読み手に何が伝わろうが自由だし、作品として世に出たからには後は読み手が受け止めたことが、作者の意図とは関係なくその詩になるわけですが、そこに確信を持てないところが良いのですね。  この頃私は北園克衛の最初の詩集『白のアルバム』に収められている圖形説と名付けられた章に入っている視覚詩とも呼ばれる図形のような詩を活字を組んで再現する試みを行なっているのですが、その後に続く北園克衛のプラスチックポエムまでを視野に入れて考えてみると、事物の意図的な配置により構成された空間を写真に映し、それを印刷して詩として提示する試みは、詩に現れてくる言葉の意味を否定または剥奪し、あるいは意味を過剰化し、あるいは一旦差し置いて、新しい瞬間を時間から取り出そうとして新たな世界を提示していいるのだろうなと思うのです。つまり生きているとい…

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朝倉宏哉詩集『叫び』

岩手から発行されていた詩誌『火山弾』の同人で、その後『火山弾』を引き継いで発行された詩誌『堅香子』に私が入会するに当たってお世話になった千葉市在住の詩人朝倉宏哉氏の最新詩集です。詩集の最後に書かれている略歴を見る限り、8冊目の詩集でしょうか。発行は2019年11月3日、発行所は砂子屋書房です。かなり前に感想の8割方書き終えていましたが、掲載が遅くなりました(その辺の言い訳は後の文章にちょっと書いています。)。 朝倉氏の詩は透き通った清楚な言葉から成り立っており、岩手の詩の鉱脈を引き継いでいるという印象がありました。岩手の詩の鉱脈とは何かと問われれば、ありきたりなことですが、宮澤賢治、村上昭夫、内川吉男と続く、日常を突き抜けた普遍性と岩手の土質や空気を感じさせるひんやりとしたものです。 ちょっと朝倉氏のことから外れますが、詩誌『火山弾』の同人の方の詩には、二つの特徴があったように思います。一つは、宮沢賢治を彷彿させる純粋で透徹した言葉の感覚、もう一つは身近で起きた出来事、身近にある事物を客観的な視座を持って丁寧に表現するというものです。その中で朝倉氏の詩は、どちらかと言えば前者の感覚が強いではないかと思っていましたが、前作の詩集『乳粥』(2006年発行、コールサック社)では、二つの方向が溶け合って、時間の流れに沿って言葉が無理なく進んでゆき、読み手がどんどんと引き込まれてゆく魅力を持った作品となっていました。 この感想を書くに当たって詩誌『火山弾』を仕舞っていた段ボール…

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