阿部宏慈詩集『柄沼、その他の詩』

 水にもまざまな水があり、さまざまな匂いがあり、さまざまな色がある。さらにいえば、海があり、川があり、沼があり、池がある。雨もあり、嵐もあり、雪解けの輝きもある。春の温かな水もあれば、夏の涼しい水もあり、秋を通り越して固まる水もある。そして生まれ故郷の北白川、高田川、田んぼ畔を流れる用水路の水がある。さらに壊れた雨傘のことが未だに忘れられない。  こんなことを書こうとしているわけではないのに、この詩集を読んでいて、ミズのことをずっと書き続けたい気持ちになりました。そんなさまざまなことで水に取り巻かれて生活してきた「わたし」にまつわる出来事や記憶を、忘れ去ったことも含め、本当にあったこととしてこの詩集は蘇させてくれます。まるで切り裂かれた傷の痛みを言葉の力で癒すようにです。さらに、そのことを書き示す言葉が自分にもあるということを教えてくれる優しい言葉たちです。  心地良いかと問われれば、そうには違いないのですが、書けば書くほど次々と溢れ出てくる言葉は、果たして確かな記憶なのかそれとも作り話なのか分からなくなります。そこには自分の見栄や嘘や妬みや欲望も姿を現してくるものですから、悔恨や辛い記憶といった痛みも伴います。   阿部宏慈詩集『柄沼、その他の詩』(発行日:2020年3月5日、発行所:書肆山田)を読んでいて、上記のような漠然とした感想を持ちました。言葉には何十、何百、何千、何万、何億、いやそれ以上の意味や表記がありますが、声に出して(心の声でも構わない)読み続けることで…

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瀬崎祐個人誌『風都市』第37号(2020年冬刊)

 瀬崎祐氏の個人誌『風都市』第37号のことを書く前にちょっと前提を書かせていただきます。ここ数日、私は長尾高弘氏の詩集『抒情詩試論?』の感想を書くために、長尾氏の詩集『抒情詩詩論?』を鞄に入れて少しずつ読んでいます。また、それと関連して長尾氏がかつて「詩の源流」と題して尾形亀之助読書会で講演をしていただものを纏めた記録を再読しています。『叙情詩詩論?』については、近いうちに感想をこの情報短信に掲載したいと思っていますが、まず最初にここで書きたかったことは、今回送られてきた個人誌『風都市』第37号の中の瀬崎氏の作品「城壁を越えるときに、鳥は」を読んでいて、長尾氏がずっと書かれている詩についての思考のことが頭を過ぎったということです。  長尾氏は、抒情詩を書かないようにと思い詩を書いていて、結局、後で読んでみると抒情詩を書いてしまっていることに、詩集『抒情詩詩論?』で自虐的に論じています。感情や思考はあくまで個人に生じるものですが、それがなんの弾みか(詩はほとんどの場合に発表を前提として書かれている。)、他の人の共感を得ると、個人のものではなくなり、やがてみんなのものとなり、気がつけば絶対的なものとなる場合があります。感情や思考がまだその人のもの、あるいはその人のごく少数の知り合いの人との間の共有したものであるときには、違う感情や思考に変わったり、日々起きる出来事に影響され違う感情や思考となったり、自分自身でそのことを否定したり、他人の影響を受け変わったりすることは簡単に起きることで…

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駒村吉重『おぎにり』

 ある一つ世界が完結している印象を持つ詩集です。そんな感想を持つ詩集に出会うことは、私にとってそんなに多いことではありません。「ある一つの世界が完結している」ということは、その「世界が完結しない世界」ということでもあります。  駒村吉重氏の詩集『おぎにり』(2018年5月2日発行、発行所:未知谷)の感想を書くと、この数行で十分ではないかと思ってしまいます。ですから、これから先へと書き進める文章は余談ということで目を通してください。  収められている53篇の作品から、どうしてそのような感想を私が持ったのか。短い詩「はりがね」の全文を引用させていただきます。    はりがね一本ありました    まっすぐではない    うねっている    うごかない    しゃべらない    つかいみちがない    これでいい    こうでなくちゃいけない    いっさいははりがねの意志    はりがね一本そこにいます                詩「はりがね」全文  なにげない、ついこれといった印象も持たずに読んでしまいそうな作品です。それだけに、この作品がどうして詩なのだろうかと不思議な気持ちになります。同時になにか落ち着き処のない、居心地の悪さを感じます。それは、私だけな感想なのかもしれませんが、なにか落ち着かない不思議さがこの詩集全体にはあります。それは、誰かに騙されているわけではないのですが、自分を欺いている自分がいるという、疑いだした…

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