駒村吉重『命はフカにくれてやる 田畑あきら子のしろい絵』(2024年、岩波書店)について

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       ★

    彼岸を疾走しつづける少年の燃える髪の輝きを浴びて、河辺で一人の少女が身体に
   巻いた白く長い包帯を解いている。秘仏か木乃伊のように。白い無数の下着のうちで
   激しく回転する肉体がみえる、あたりはそのため霧を生じ、私は頬に冷たい掌の感触
   をうける。

       ★

    行け! 行け!
    行け! 行け!
    行け! 行け!
    響く叫び、響く光景全体は
    おお 球状の言葉だ!
    私は人間の姿をしていない、言葉だ!
    行け! 行け!
    おお 壮大に腐ってゆく
    純白文字が撥する虚無音を聞いた
    紙幣が薄紅色だ!
    ラッセル
    雪
    行け!
    ときおり私は青いガラスの破片をひろって額の中心に飾った
    ああ 世界中と平行移動
    私の歩行の時間構造が私の魂の実体だろうか
    行け!
    銀河破壊!




          吉増剛造『黄金詩篇』より
          詩「夏の一日、朝から書き始めて」第四連及び第五連



 この本、駒村吉重『命はフカにくれてやる 田畑あきら子のしろい絵』(2024年、岩波書店)を最初に読み終えて、二つのことが私の頭を掠めました。一つは、田畑あきら子のカタカナ混じりの言葉が、あまりにも!吉増剛造の詩の言葉の運びを彷彿させるということです。もちろん、この本で吉増剛造が田畑あきら子の友人として登場するからなのですが。もう一つは、わたしが詩画集を作る約束をして交流していた画家鈴木智のことでした。画家鈴木智は、絵を描き続ける中で深い悲しみの中に入り込み、自分がゴミみたいな存在だと自覚し、晩年は海に浮かんだ紙屑の絵ばかりを描いていた画家でした。


 吉増剛造は、わたしが詩を書き始めた若い頃にとても好きだった詩を書く人でした。詩人への興味というよりも、吉増剛造の疾走感のある詩がとても好きでした。それは、フリージャズのトランペッターだった沖至のビートの効いた演奏に合わせて詩を朗読する吉増剛造の恍惚に至ろうとする朗々とした言葉の飛沫を無心で浴びることでした。意味だらけの言葉の意味から、言葉を使って意味をはぎ取り、何もない裸身を成立させようとする行為でした。当時河出書房新社から出ていた透明なプラスチックに覆われた五巻からなる吉増剛造詩集を手に入れて読み耽りました。この本に出てくる田畑あきら子の言葉が、そのときの吉増剛造の言葉と同じなのです。それで、冒頭に吉増剛造の詩の断片を引用しました。

 吉増剛造の詩の言葉の運びは、初期の作品では「疾走」という言葉でよく表現されます。ある一つの言葉のフレーズから始まって、次々と現れるイメージを繋いだり、膨らましたり、壊したり、反転させたり、溶かしたり、感嘆符をあしらったり、違う言葉が現れ、溢れ出し、高みに登ってゆく。そんな言葉の運びです。魂が漂流するというか、一つの場所に留まろうとしない中心から離れてゆこうとする遠心力を使った言葉です。それが、あまりにも遺稿集に収められた田畑あきら子の言葉と瓜二つなのです。もちろん違う人間が描いているので書かれていることは全く違うのですが。

 人は、自分の身に起きた物事に対して、どうしてもカタチを見ようとします。見ずにありのままに意識することは簡単にできることではありません。それはできないことではないかとわたしは思います。自分が見てしまったものを何らかの方法で意図的に消すしかその方法はないのではないかと思ったりします。若い頃の吉増剛造の詩はそんなものではなかったかと、わたしは思うのです。「わたしは思う」と書いたのは、間違いなくそれは、わたし自身の身に起きたことだからです。


 著者の駒村さんは、この本の冒頭の「プロローグ 未完のまま」の章で、「絵にはひとを迎えいれる間口らしきものがなかった」と書いています。わたしは、これから始まるページをめくる旅で、絵の中に入ることができることを期待して読み続けました。しかし、読み終えて、何もわからなかった、絵に拒絶されたという印象を持ちました。いや、扉を開けるための糸口となるさまざまな絵や言葉、たくさんの出来事が書かれているのですが、そのどれかに焦点を当てると、そのことだけが頭の中を占めてしまい、ほかのことが全くわからなくなってしまう。そんな当てのなさを感じてしまいました。絵に入る扉を見つけようと、死んでしまった田畑あきら子というひとの生涯を、顛末から辿ってみているのですが、彼女が表現しようとしたものが、何とも結びつかなかったのです。ただ単に鋭利な切り口の断片だけを見せられたような印象でした。これは読みが足りないのかなと思い、ゆっくりと二度読んだのですが、印象はあまり変わりませんでした。


 感想にもならないつまらないこと(つまり、自分の個人的なことです。)を書いているなと自分でも思うのですが、どうしてもそうなってしまうのです。どうしてでしょうか。・・・・・・・少し考えています・・・・・・・・・・・・・・・、

 それは、田畑あきら子の絵よりも、言葉が印象強くわたしに刺さってくるからかもしれません。駒村さんは、冒頭の冒頭「プロローグの前に 波音」の章の最後の方に、「「生キルコト」、そして「意識」と「無常」、「死」の関係――/おとろえきった指で引き寄せた最後の問いは、これだった。」と田畑あきら子が問い続けてきたことを書いています。その問いの言葉が、重く自分にものしかかるのです。どうしてか? ・・・・・・・・・・どうしても問いが生まれます。



 「美しきもの見し人は、はや死の手にぞわたされにけり」



 この本で、田畑あきら子が好きだった言葉として紹介されている言葉です。2001年9月に田畑あきら子展を画廊「かんらん舎」でを開催したときに画廊主の大谷芳久が展示に添えた「ひとこと」に書かれている言葉です。失敗を許そうとしない厳しい言葉です。



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