小関俊夫詩集『もったいない農婦』(2023年、無明舎出版)について
わたしが出した復刻版尾形亀之助『障子のある家』を買い求めいただき、その後わたしの自宅に届いた手紙に同封されていた詩集です。手紙には、7冊目の詩集であること、原発事故から世に物言いをたくて詩を書き始めたこと、農民であること、農民作家故山下惣一さんをつがなければと思っていることが、簡潔に記されていました。
冒頭の詩「青虫」の一部を引用します。
青虫
キャベツブロッコリーの
葉の裏に
青虫がいっぱい
女房がボールいっぱい
とってきて
ニワトリにやる前に
得意げに見せる
生きる女が
立っている
詩「青虫」最初の一連
最初に『もったいない農婦』に収められている詩の言葉に目を落としたとき、わたしが感じたことは〈ぶっきらぼう〉な言葉だなというものでした。正直に申せば、とっつきにくかった詩の言葉でした。それはどうしてかわかりませんが、たぶん小関さんの普段の言葉がそのまま詩の言葉になっているのだろうなと想像しました。飾らない、説明をしようとしない。そして、わかりやすくしようとしない。つまり、作為的ではないのです。しばらくたって、次第々々に小関さんの詩の言葉を繰り返しかみしめていると、そこに人間の言葉が、人間が発する言葉が、人間そのものが見えてくるような気がしてきました。語る言葉が、そのまま詩の言葉となり、いのちへの思いが言葉に乗っかっている。そんな印象です。
一通り詩集を読み終え、とっつきにくいと感じた印象は変わりませんでした。いつもならそのまま手を動かし本棚に仕舞うのですが、69編ある詩の中にひとつだけいいなあと思った詩がありました。それが気になり、手元に置き出かける時には手提げ袋に入れ、時間がある時に読もうと思って過ごしていました。これを書いている今、その詩がどの詩だったのか、もう一度詩集を読み返してもさっぱり思い出せないのですが、その代わりどの詩もいいなあと感じてしまう自分が今ここにいました。
先に引用した詩「青虫」の中の〈生きる女が/立っている〉という言葉にはどきっとさせられます。そこに見えているのは、まっさらな無垢のいのちそのものだと思うのです。女房の姿に、人の命をきちんと見据え、そのことを言葉で強く表現することは、さまざまなしがらみを抱え、さまざまな思いを抱きながら世相に流され、あっちに行ったり、こっちに戻ったりと浮ついた日々の生活を送っているわたしにはまったくもってできないことです。そんな無垢ないのちを恵として感じ取った言葉が、この詩集の中にはたくさんあります。
畔のタンポポにウィンクしたり
遠く残雪の山々に
「雪代待ってるど」と
大声あげたり
ごきげんなパートナー
おらも楽で眠気がでる
詩「パートナー」最後の6行
三日間
オタマジャクシを
忘れていた
晴天と強風で
水たまりは干あがり
オタマジャクシも
干あがった
ごめん
詩「オタマジャクシ」第2連
小さなブロッコリー
四個もつけて
雪の懐で
冬眠しながら
春を待っていた
ブロッコリー
めんこくなって
なでてやった
詩「ブロッコリー」最後の連
小関さんにとって農業は生活の糧ではあるのですが、いのちを育むものとして大切にしてきた営み、生業(なりわい)なのでしょうね。だからこそ、農民を農地から有無を言わせず強制的に排除した原発事故に対する思いは胸を引き裂くような痛烈な怒りのようなものであると想像します。そして、次のような詩も生まれます。全文引用します。
橙色の広い広い夕空を見て
村みんなで農業やる時代は終わった
大豆にデントコーンに飼料米
小中農家がつくる作物でない
助成金で大型機械を入れて
すべて機械作業
農薬散布にドローンまで登場する
いわゆるスマート農業
家族農業ではたちうちできない
村の田んぼは農業会社に
吸い込まれていく
田んぼをつくらない農家は
村に住む必要性もなくなっていく
肉食のための飼料自給率
米価を上げないための効率主義農業
農家を消して村を消す
七月の稲田は青々としげり
農民を呼ぶが
農民の姿はない
おらは行く
愛に行く
詩「橙色の広い広い夕空を見て」
わたしは、小関さんに会いに行きたくなりました。
最後にどうしても書きたいことがあります。全ての詩ではありませんが、ところどころに挿画があります。小関さんが描いたものです。「俊」というサインが入っています。とても素敵です。詩の言葉に呼応するぶっきらぼうな線と面ですが、タイポグラフィの趣を有しており、まさに原始の言葉です。表紙画もそうです。
この記事へのコメント