竹内英典詩集『伝記』(2023.10.10、思潮社)

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 竹内英典の詩は、象徴するものを軸に置き、それにまつわる人の行為を遺跡のように列挙する。その語る言葉によって忘れ去られてしまった、蘇ることのない記憶を想起させようとする。その作業はあくまで喜怒哀楽を伴わず、淡々として一定のリズムを持たず散文的である。しかし、あまりにも痛烈な想起を伴うことから、どこか叙事的である。多くの場合、象徴となるものは詩人や芸術家などの表現者の言葉や作品である。

 冒頭の作品「伝記 I」は、あとがきに書かれているように詩人藤井貞和の「挫滅につながれた伝記」という言葉を軸に置き、一篇の詩が語られる。もちろん藤井貞和の「挫滅につながれた伝記」という言葉の意味することは誰にもわからない。竹内英典にもわからないはずである。他人の言葉を理解できたと思うことほど愚かなことはない。

 理解のしようがない言葉を受け取って竹内英典は自分の言葉で語り始める。


   風が来る

   ひとの手の
   始まりの時から
   穏やかさを装って
   やって来る

   現実が
   悲鳴を抑え
   叫びを抑え
   鳴っている
        ・・・・以下省略・・・・

      詩「伝記 I」三連、四連及び五連の冒頭4行


 この引用した詩文は、冒頭に藤井貞和の言葉を引用し、それにつづけて書かれたものである。

 「手」は、前作の詩集「歩く人の声」に頻繁に出てきたモチーフである。竹内英典にとって「手」はとても大切なイメージである。自分を投影した分身といってもいいかもしれない。手はいろんな表情を見せるし、時に意志を表す。そして次の連から続く詩の言葉は竹内英典の得意な詩表現となっている。イメージとして、大きな手が口を押さえているのである。口を押さえ、悲鳴を封じ、叫びを封じている。しかし、どこからかその声が鳴っている。漏れた声を風が「現実を霧散し/零までも運び去る」。影をひたすら濃くすることで見えなかったものをかろうじて浮かび上がらせようとする思考だ。言葉による表現とすれば、否定形を貫くことでその先に何かのイメージを浮かび上がらせる表現である。


   欠如が歩むこと
   欠如が生む侮蔑の夜に
   目をこらし
   その
   そこにあるかもしれない
   あのものの名を呼ぶための
   (あらたな)ことばを
   風が覆う僅かなひかりのしたで
   語る
   せめてもの
   ときを と

               詩「伝記 I」最後の連


  竹内英典は、藤井貞和が記した「挫滅につながれた伝記が生まれたこと」を欠如という言葉で受け止めている。欠如を生むということは、「撲滅につながれた伝記」が蘇るということである。そのようにわたしはこの詩を読んだ。この詩集に収められている詩が蘇った伝記、あるいは風が覆う微かなひかりの下で語られる言葉ということなのだろう。

 この詩でこの詩集の第一のプロローグは終わったと考えていいのだろうか。

 この詩集を受け取って、真っ先に感じたのは、表現が滑らかだということである。流れるような言葉遣いが随所に見られる。それはこれまでの詩とはあきらかに異質に感じる。最初に書いた「淡々として一定のリズムを持たずあくまで散文的である。」ではないのである。どうしてそうなったのだろうか。


   枯野に
   それはあったのか

   細い道をとおり
   ゆめのあとを
   掘ったのか
   細い道をとおった人の
   ゆめのあとをたどりたどり
   掘ったのか

   なかったものに
   あったものを
   見いだしたのか

   あったものに
   なかったものを
   見たのか

   待ったのか
   過ぎていったものを
   まだ来ない
   あのものを


               詩「ゆめのあと」最初の五連


 滑らかである。リズもある。「か、か、か」と言葉が続く。くるくると言葉をひっくり返しながら、流れてゆく。なにを捉えようとしているのかわからないが、最後の連に「相対のなかの/ひとつの意志を/ただひとつの絶対の意思に変え」という求めるものが言葉として現れる。「ただひとつの絶対の意思」とはなんだろうか。ここに現れる「意志」という言葉を、たとえば「生きる意味」に置き換えてみると、わたしには何かしら見えてくるものがある。それは、「安住の地」「争いのない平和な世界」といった言葉で表現できることが浮かんでくる。安易ではあるが・・・。しかし最後には、この「ただひとつの絶対の意思」は、「意思の行方を/幻想の地を/地の歴史を/だが/ここを離れて/何処を」とぼやけてゆく。

 わたしはこの詩人が何を訴えたいのか。わかってほしいのかを考えて読んでいる。まさか歴史を教えようとしているのではないだろうし、過去の先達の言葉を列挙しようとして自慢しているのでもないだろう。歴史はわからないことばかりだし、過去の言葉は誰にも読み解くことはできない。ただそこにあるものは作者の意思、言葉を選ん作者の意思だけである。それがいったいなんだろうか。この言葉を選んだ意思というものはいったいどういうものなのだろう。


   高空をこれまでになく蝶が幾百と羽ばたき急ぐのが見え
   夕空に燃える雲の群がうしろから襲うように包み込み
   蝶は見る見る灰となって散った

               詩「草叢」第五連


 とても美しい詩行である。これを美しいと思うわたしの心は一瞬かもしれないけれど、絶対に美しいと思うことに等しい。何を言いたいかと言えば、竹内英典は、「ただひとつの絶対の意思」となる詩の言葉を書きたいのだなと思ったのである。たとえばこの引用した詩の言葉がそれにあたる。不完全な形として生まれたものが完全な形として蘇るための生まれなかったもの、失われたもの、影のなかに埋もれたもの、掘り起こさなければ現れないもの、そういう言葉が詩集全体に散りばめられている。


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