佐々木洋一詩集『でんげん』

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 まず一つひとつの詩のことを感じたままに書き記すことからこの詩集の感想の記述を始めたい。

 冒頭の詩『でんげん』は、詩集の表題となっている。だからと言って、この詩集全体を象徴するような作品ではなく、冒頭に置いたことで詩集の表題にもなったと解したほうがよいと思われる。「でんげん」という言葉はいったいなんなのか。誰しもそう思うのではないかと察するが、最後に表記されている注釈に「*でんげん=田源、田間」と書かれていても漢字一文字ひと文字が表す言葉としての意味はわかるが、漢字二文字が組み合わさって表されるとそれがどんな意味を表しているのかは全くわからない。

 作者の感覚でしかないと思われるこの造語は、音の響きから「でんでん」、「でんわ」、「でんりく」、「くりでん」、「でんぐりがえり」、「でんげん(電源)」、「ぐりとぐら」「でんえん」などと音の感覚的な響きから想像はできる。かと言ってオノマトペとも違う。状態や動きを形容する言葉とは思えない。そして、作者自らが「でんげんを漢字で描いてはいけない」(第4連)と書く。

 さらにこの詩では気になる表現に出会う。1行目の「畦道に鎮まる」という言葉の「鎮まる」である。読み進めるうちに言葉の意味が分かるのかなと思っていたら、第五連に「畦道に止まる」という言葉が出てきて、畦道に「鎮まる」と「止まる」では違うことを意図して書いていることがわかる。わかるのだが、それがどう違うのかはわからない。動詞の意味として「鎮まる」と「止まる」の違いは判るとして、それは一般的な用語の違いであり、この詩で表現しようとしている作者の言葉の感覚がどうなのだろうか知りたいと思うのだが、わからない。それは感覚として捉えるしかないものかもしれない。そんなことを考えていると、いったいこの言葉の主語は誰だろうと思った。



 畦道に鎮まると
 でんげんがいる
 ひき蛙やどじょうの傍らで
 まだ大丈夫と言っている

 何が大丈夫なのか
 問い詰めても
 でんげんはただ大丈夫と言う

 畦道のみち草やのら風に
 そうそうふうふうという名を付けたのは
 でんげんだと言われているが
 定かではない

          詩「でんげん」最初の3連



 「まだ大丈夫と言っている」でんげん。「ただ大丈夫と言う」でんげん。「そうそうふうふうという名を付けたと言われている」でんげん。この言葉の語り主が誰なのだろうかと思う。もし、語り主が作者であるとすれば、作者の個人的な感覚を言い表しているのだろうと思うしかない。そうなると、作者である佐々木洋一の世界を知らない限り、でんげんが鎮座する感覚の村に住むことは難しいような気がする。

 詩「新雪の土手の道」の最後の3連を引用する。



 むかし
 新雪の土手の道からわたしは獣と一緒に土手下の方へと曲がっていき
 新雪の深さの中に消えたことがある

 しばらくして
 幸いにもわたしは元来た道に戻れたが
 一緒の獣は戻って来なかった

 新雪の土手の道を歩いている
 何かの獣の足跡と並行して歩いている
 振り向くと 二つの獣の足跡が続いている

               詩「新雪の土手の道」最後の3連



 情景が美しい詩である。しかし、書かれていることをよく読んでみると、降り積もった柔らかい新雪の中を歩いていると、雪の深い場所ですっぽりと雪の中に消えてしまい、そこからやっとのことで道に戻ると自分の足跡が獣の足跡になっていた、ということになる。確かに感覚的な言葉の表現は巧みで美しいが、理解をしようとすると、雪の中にすっぽりと入ってどこかに一旦消えてどうしたのだろうかと疑問が湧いてくる。しかし、ただそれだけである。そして、やはり、この詩の主語が作者であるとすれば、「でんげん」を読んだことと同じ感想になる。

 わたしは何を言いたいのかと言うと。この「でんげん」と「新雪の土手の道」を語る主は作者である佐々木洋一ではないと言いたいのである。例えば、『遠野物語』のようにである。作者は柳田國男であるが、話者は佐々木喜善であり、語られる物語りは山人が住む世界である。詩集『でんげん』の場合に当て嵌めてみれば、話者が詩人佐々木洋一となる。
『遠野物語』の序文の言葉を思い出して欲しい。「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」である。

 かつて佐々木洋一が中央詩壇でもてはやされていた頃、思潮社から刊行された新鋭詩人シリーズ『佐々木洋一詩集』(1979年)の最後に収められている岡田隆彦の「肉感的に「村」を築く」と題されて評論を読むと、「「ササヤンカという原点」に退きながら歌うのではなく、自身がいう通り、そこに出発し、都市化しつつある拡充していってほしいと言うのが、わたしの正直な希望だ。」と岡田隆彦から佐々木洋一に希望が託されている。それから四十年が過ぎた今、佐々木洋一は佐々木洋一なりに今を生きている。詩集「でんげん」を読んでいるとそのことがヒシヒシとわたしに伝わってくる。そしてこの詩集の語り主が作者であると考えて読めば読むほど、なおさらそのヒシヒシさはヒリヒリと痛みを伴う感覚として感じられる。それはどうしてだろうか。

 詩集『でんげん』における佐々木洋一は単なる話者なのだと思いたい。

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