![水別れ、水隠れ.jpg](https://jyouhoutanshin.up.seesaa.net/image/E6B0B4E588A5E3828CE38081E6B0B4E99AA0E3828C-thumbnail2.jpg)
倉敷在住の詩人瀬崎祐氏が2022年7月に出版した7冊目の新しい詩集『水分れ、そして水隠れ』(2022年、思潮社)の感想を書かせていただきます。
丸背上製本、背幅は約1センチ、縦長のA5判変形なので、普段見慣れたコピー用紙の縦横の比率から少し離れ、小さくもなく重くもなく、手に馴染みやすい作りです。その本を包むカバーは硬い上質紙でしょうか、青味がかった濃いグレーを基調とした落ち着いた風合いです。その色が水に溶けて滲むようにモノトーンの写真が薄く貼り付いています。
画像は誰も通らなくなり荒れ果てた道らしく、通行を遮る柵が左側に見え、右上には道路標識が写っています。手前に目を遣ると雑草が生い茂り、人の通りがなくなった山間の荒れた場所を思わせます。道の奥は霧で覆われているのでしょうか薄ぼんやりとして視界が遮られていますが、じっと目を凝らしているとその奧から光が射しているようで、輝いているようにも見えます。でも、こちら側にはその光は届いていないようにも感じられます。その光の明るい色の中に浮き上がるように表題と著者名が同じ青味がかったグレーの色を使いウエイトが細くキレのある書体で印字されています。光が見えているということは当然に見ている自分には光が届いているはずなのに、その光を自分では遮ることも写し取ることも、どうにもできそうがないのです。
朝の景色でしょうか、見返しを捲ると、薄水色の透かしの用紙にカバーの表題と著者名の印字と同じ書体で表題と著者名が現れ、上の方と下の方に空に浮かぶ雲のような、あるいは水面を漂う波のような筋が印刷されています。これは、厚手の白いパラフィン紙に薄水色で文字と筋を印刷したのだなとわかるのですが、本文の中表紙の縦組の文字と重なりあって十字に表題が交差することでどこか畏まった気持ちにさせられます。
カバーを脱ぐと、青みが幾分取れて茶色に近くなったくるみの紙に少し濁ったクリーム色で「水分れ、そして水隠れ」と背文字が打たれています。花布とスピンはグレーの光を集めたような鈍い銀色に整えられ、落ち着いた姿で私の机の上に佇んでいます。表紙を開くと、見返しは身晒しの和紙の温かい風合いを感じさせ、詩の言葉たちをやさしく繋いでいるようです。
瀬崎氏の詩は、時おり送られてくる個人誌『風都市』や瀬崎氏が作品を書いている同人誌でかなり頻繁に読んでいます。頻繁にと書いたのは、日常的に今の時代の詩を読む機会が少なくなっている私にしては、数多くリアルタイムで読ませていただいているということです。そこで、この詩集を読んだ第一印象は、それら個人誌や同人誌で読んでいるものと違う、ということでした。前作『片耳の、芒』(2016年、思潮社)では感じなかったことです。その大きな理由は、多分私が瀬崎氏の詩を固定した概念に閉じ込めて読むようになったからではないでしょうか。ただ、帯に書かれている「新境地を拓く第7詩集。」という言葉を見てしまうと、読者としての自分の位置をいい意味で見失って、ある程度まっさらな気分で読むことができそうです。
収められている多くの作品は、幾つかの散文調の文章が重なりあう改行詩です。一連は数行の散文調の文章から成っており、同じ連の中で一つの文の区切れが行末にこないように、つまりは行頭が一字下げにならないように詩文の形が整えられ、文字間が微妙に調整されています。ハレの言葉を読むという感覚ではなく、ケの文を親しく読むようなたやすさがあります。それがとても気持ちがよく、心が和む穏やかな文章なのです。何がそんなに私を惹きつけるのだろうかと考えてみると、それは取り立てて大切なことを言おうとしていないことなのかなと思ったりもします。でも、瀬崎氏の言葉はいつもそうですが、そこで語られていることは、現実を了解するための意識では理解できないことばかりです。
この詩集を初めて読んだ時の印象は作品の終わり方が意外なものが幾つかあり、ちょっと首を捻りました。それは、先に書いた装幀の説明を引用すれば、「道の奥は、霧で視界が遮られていますが、奥からは光が射してきているようで明るく輝いているように見えます。」という文章の主語を「詩」に置き換えて見えてくる景色です。
例えば、冒頭に収められている詩「奥津のとき」では、
小さい人は片手ぐらいの大きさで 実はわたしが手のう
えにのせている だから わたしの気が緩むと小さい人
は湯のなかに沈んでしまう
詩「奥津のとき」第2連最初の行
わたしも湯に沈んでしまいそうだよ
詩「奥津のとき」最終連
ここでは湯に沈むのが小さな人のはずなのですが、最後の連で「わたしも沈みそうだよ」と詩の文の結末が書かれています。私がここで「結末」と書いたのは、〈意識〉に置き換えてもよいと思います。ここでは、〈意識〉は〈明るさ〉と同じです。
次の2章からなる詩「夜の準備」では、
ここからは崖の上に止まっている大きなトラックがよく
見える 夕刻になるとあの崖上に戻ってくるのだが 少
し前に進むだけで崖から落ちてしまいそうだ そんなぎ
りぎりの場所で いつも夜をすごしている
昼の間はどこかへ作業をしに行っているのだろう 溶け
たものを運びつづけているのだろう 恨みや妬みを溶か
して 言葉が重く揺れてうねる 悪路でトラックは跳
ね 荷台からこぼれたものは路上に点々と跡をつける
詩「夜の準備」第1章の1連及び2連
ほら ここまで登ってきた 下に見える景色は蜃気楼の
ように浮かんでいるね それにしても こんなところに
古ぼけたトラックが止まっているなんて 幼い日には思
いつきもしなかった
姉は遠くに去り トラックの荷台からこぼれたものはど
のあたりに滲んでいったのだろうか 荷台の片隅でこぼ
しそこねたものが 暗く色を変えて まだ佇んでいる
詩「夜の準備:第2連最後の2連
私が冒頭に納められている詩「奥津のとき」の印象として書いたことで言えば、「暗く色を変えて まだ佇んでいる」と言い切っていることが詩の結末に思えてくるのです。
このような詩の結末、つまり最後に言い切ることが、これまでの瀬崎氏の詩ではあまり感じることがなかったのです。どちらかというと淡々と事が流れ、淡々と終わるという印象だったのです。この違いや変化はなんだろうという意外な気持ちです。この私の感想は我田引水で自分にとってこの詩集を読み進めるのに都合の良いことではないかと思うのですが、最初に出会った印象は全くの誤読であっても大切にしたいと思うのです。
引用した詩で言えば、「沈む」「溶かして」「滲んで」という物事が曖昧になる言葉の表現がこの詩集では頻繁に出てきます。ですから本来は結末が見えなくなるはずなのですが、そうではありません。
このように自分勝手にこの詩集の感想を書き進めてゆくと他に引用したいよい詩がたくさん出てくるのですが、切りがないのでこの辺りで私のくどくどとした感想は終えたいと思いますが、瀬崎祐氏の詩集『水分れ、そして水隠れ』に私の持った感想はこの拙い文章の冒頭に書いた詩集の装幀の印象が全てと言ってもよいのです。とても温かく優しい言葉です。
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