やまうちさんが書く詩は、詩集『This is a pen』の表紙に描かれた絵の印象からも、この世のものとは思えない寓話の世界を彷彿させます。それは、この詩集に限ったことではなく前の詩集にも当てはまります。
いざ、詩集のページを捲り、読み始めると最初に次のような言葉に出会います。
わたしのむねのゆうやけを
そして最初の詩「哺乳類の絶滅」が始まります。
悲しみをとぼとぼ辿っていくと、駅のホームに辿り着いていた。なん
だ、もう一度出発なんだ。そう気付いた時には、もう旅人の顔をして
いる。ホームには、自分以外の人影は見えない。柱に繋がれた雑種犬
と、自愛に余念がない天使。
詩「哺乳類の絶滅」最初の4
ああ、これはまさに寓話の世界だと改めて思うのですが、しかし、それが何を喩えているのか、そこに見えている水面の波の表情を作っているであろう深海での出来事に思い巡らすことはどこか無駄なような気がしてしまうのです。それはいつものことで、私はついぞやまうち氏の言葉をわかったためしがありません。この場合、「わかった」に正解がないはずだから、私の理解は独りよがりな勝手な思い込みでもよいのですが、それすらありません。大分前に詩集『my songs』の感想を書いたときも、読み返してみると何も分からないということを白状しているような文章で、今、最新詩集『This is a pen』の感想を書くに当たっての取っかかりとなるような自分の言葉はそこに何も書かれていませんでした。
しかし、喉元まで出かかっている何かが私の中にあります。やまうち氏が冒頭に置いた言葉「わたしのむねのゆうやけを」・・・・・そんな感じです。
だいぶ前に場面緘黙の女の子の箱庭治療に関わったことがありました。定期的に私はその子の保護者と面接を行い、チームを組んでいた心理士が遊戯治療室で彼女と一緒の時間を過ごしました。箱庭療法は小さな箱の中の砂場の世界に、棚にある動物や植物、建物や自動車、そして人間といった身の回りにある様々なミニチュアの模型を自由に置いてゆくという遊戯治療で、当時私が働いていた児童相談所には職員が適当に集めたとしか思えないような怪獣や何かのお菓子のおまけなども棚に置いてあり、どこか静まりかえった公共施設の中でそこはにぎやかな別世界でした。
箱庭は、最初は箱の中に砂があるだけのただの空間です。砂を除けると青い下地が見えてきます。ですから、砂を二つに割ると川を隔てた二つの陸地ができあがり、砂を片方に寄せると波が打ち寄せる海岸が現れるといった感じで場面の設定はいくらでもできました。箱の中では何をしても許される安全な世界が保障されています。戦争も人殺しも恋愛も、一人ぼっちになってもよい何をしてもよい世界です。裏返してみれば、ほかのことはさておき、ただそれだけなのです。
その女の子は小学校を卒業すると同時に箱庭療法も終了しましたが、治療を始めた最初の頃に作った箱庭の世界の写真と、数年後の小学校を卒業する間際に作った箱庭の世界の写真を見比べると、その差は歴然としていました。最初の頃は、人形や模型がお互いに離れてポツンと置いてあるだけの淋しい世界でした。それが最後の頃になると幾つもの街ができあがり、様々な場面の中に大勢の人形や模型達が互いに関係を持ってにぎやかに置かれた調和した世界が表現されていました。
やまうちさんの詩集『This is a pen』を読んだときに、詩の印象として最初に浮かんだことが箱庭療法のことでした。なにもないところでこれから何かを表現しようとするときに何から始めるのだろうか。そしてそれが詩の場合はどんな言葉を選ぶのだろうか。「This is a pen」は、英語を最初に習うときに出てくる文章の一つかもしれない。そう考えるとこの詩集の題名は妙に親しげに私には思えてきます。
悲しみをとぼとぼ辿っていくと、駅のホームに辿り着いていた。なん
だ、もう一度出発なんだ。そう気付いた時には、もう旅人の顔をして
いる。ホームには、自分以外の人影は見えない。柱に繋がれた雑種犬
と、自愛に余念がない天使。
詩「哺乳類の絶滅」最初の4行(再掲)
「駅のホーム」、「自分」、「犬」、「天使」が箱庭に置かれていると考えてみましょう。その時点でどうしてそのもの達が選ばれたかという理由は、作者の中の棚に置いてあったからということ以外にはあまり説明は必要ないように私には思えます。それは作者がそのもの達がどうして選ばれたのかをあらかじめ説明できる言葉を持っているからではないでしょうか。その説明を借りれば、悲しみをとぼとぼ辿り着いた場所が「駅のホーム」であり、もう一度出発しなければならない「自分」はもう旅人の顔をしており、人のいないその場所では「犬」は雑種交配を繰り返し、「天使」は手持ち無沙汰になって自愛に余念がない、ということになるのかなと思います。多分にやまうち氏の言葉に寓話かなと私が惑わされてしまうのは、言葉が選ばれた意味を考えたくなるからだと思うのです。しかし、選ばれたことの意味はやまうち氏の中ですでに完結しており、私は宛がわれた世界をただじっと見ることしかできない。それが、冒頭に書いた「わかったためしがない」ということかもしれません。
どうしてそうなるのか。それは、すでに箱庭療法を行ってでき上がった完成後の世界が提示されているから・・・だからではないでしょうか。ここで重要なことは、作者が読者に詩を通じて何を提示しているのかということになるのですが、箱庭療法は表現すること自体に意味があり、何を表現しているか本人にとってはあまり意味がないことです。
ここまで書いた徒労ともいえる繰り返しの私の自問自答は、やまうち氏の詩を読むための私なりの前提となります。さて、ここからが詩の感想ということになのですが、近頃はこういう回りくどいことをしていかないとなかなか詩集という厄介な箱は開けられなっています。
この詩集『This is a pen』は、3章からなる構成となっています。冒頭に挙げた「わたしのむねのゆうやけを」という言葉は、最初の章の総題です。第2章の「感染性交響曲」と題された11篇の詩群を読んでみましょう。詩「伝染るんです」と「変なおじさん」以外、どの詩にも黒ヒョウが出てきます。
黒ヒョウが出没したという
知らせが町を駆け巡った
獰猛な肉食動物だから
外出は自粛するよう要請がある
学校は休校
詩「黒ヒョウ事件」最初の5行
黒ヒョウがやってきた
僕たちの学校に
なるほど、ネコ科らしく
足音ひとつ立てず
廊下をゆっくり歩く
生徒も教師も襟を正した
詩「私立黒ヒョウ学園」最初の6行
HRの時間になると
黒ヒョウが教室に入ってきた
あ、代わったんだ
担任の交代は初めてではないので
生徒らは慣れっこだった
詩「担任代行」最初の5行
不登校になった
生徒の座席には
いつの間にか
黒ヒョウが坐っている
詩「おはよう」最初の4行
学校が休みの間
生徒や児童は
黒ヒョウのことばかり
考えていた
誰に言われたわけでもなく
自然と頭に浮かぶのだ
詩「豹変」最初の6行
マグリットの絵のように
街じゅうに黒ヒョウがあふれた
誰がばらまいたのか
住民は小さなマスクをし
屋内に引きこもるしかなかった
詩「街の絵」最初の5行
残業で
すっかり遅くなってしまった
疲れた身体を引きずって
車のドアを開け乗り込むと
助手席にいる
随分大きくなった
詩「対話編」最初の6行
ふと
画面の向こうを何かが横切る
黒くしなやかな曲線
まさか
と冷や汗が出る
詩「対話篇Ⅱ」62行からの5行
うららかな春の午後
今日は記念日なのに
全校生徒1500人
ひとり残らず居眠り
教師も教壇で
あるいは教室で
うたたね
目覚めているのは
一頭の黒ヒョウだけ
詩「創立記念日」1連から4連まで
普段、学校や街中に黒ヒョウは現れない。だからどうして黒ヒョウなのかと考えてしまうのですが、それは先に書いた私がこの詩集の感想を書くための前提においてはなんら疑問とはならないことです。つまり、そのような世界なのです。なんらの不思議もない日常の出来事です。ほかのことはさておき、ただそれだけなのです。
やまうち氏の詩は、どこか気持ちが良い言い回しが現れます。例えば、
てのひらの雨雲を
誰かに届けるために
やって来たのかもしれない
役割は
私が与り知らぬところに
あるのかもしれない
笑うかもしれない
怒るかもしれない
まっすぐな犬のように
愛されることが
必要だったのかもしれない
忘れられない
かもしれない
詩「雨の人」全文
「まっすぐに犬のように/愛されることが/」・・・なんて気持ちの良い言葉なのでしょうか。他にもそんな素敵な表現が沢山あります。それがこの詩集の読み所ではないかと思います。そして、どうして私は、その言葉が気持ち良い、と思えるのか・・・。それは、物事が割り切れるからなのだと思うのです。例えば、新型コロナウイルスが黒ヒョウという言葉で言い表されてしまえば、なんとなく割り切れて終わってしまうのです。後は、次の展開が始まるしかなくなる。そういうことではないでしょうか。迷いのない言葉が存在できるために敢えて箱庭のような完了された世界を作り出している、と思えてしまうのです。
長い感想になってしまいましたが、かつて、やまうち氏は、詩誌『回生』が定期的に行ってきた無意味な意味の尾形亀之助読書会で話者をお願いしたことがありました。そのときのやまうち氏の講話は、尾形亀之助のような詩を文法上の言葉の組み替えで作ってしまうという内容でした。それは見事な話でした。そして、それは〈割り切れる〉ことでもあったように思えるのです。
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