高啓氏の詩は前に感想をかかせていただいた『二十歳できみと出会ったら』(2020、書肆山田)もそうですが、行頭開始の連と行頭一字下がりの連が断続的に続きます。どうもその違いが気になってしまいます。大して意味がないような気もするし、そうではなくそうせざるを得ない理由があるような気もします。
棚の陰からこちらを窺っているような気がした
なつかしい誰かと
チャカチャカというちかしげなその足音と
だから入り口でそっとその小舟を手にとり
上と下とにコンテナを載せてすぐさま推しだすのだ
アカ、キ、ダイダイ、アオバイロにオウドイロ
野菜売り場では初手から女が奇妙な色物たちを籠に入れる
するとあさっての悪心みたいな午後の眠気に堪えながら
女に就いての午後の航行がはじまる
詩「午後の航行」最初の2連
ここで2連目の始まりとなる言葉「だから」の前提となる状況は、一連目の詩行で書かれていることとどんな関係があるのだろうかと考えてみたくなります。この詩集の後に出版された『二十歳できみに出会ったら』では違いが整理されていたと感じていましたが、その理解ではどうもこの詩集では通用しないようです。
ということで
航路の終わりはパン売り場の片隅のジャムの棚
ストロベリーとブルーベリーをひと瓶ずつ手に取ると
なつかしい誰か
ついにあいつが、
あの鳥足の男がチャカチャカと床を引っ掻いてやってくる
(ああ、ひさしぶり。ほんとうにひさしぶり。)
おっと、ほんとはそんな鳥足の男を幻視ることもなく
列に並んだ婦のノースリーブの種痘の痕を一瞥しては
それに欲情すると嘘を書いた昔の詩を口ずさんでレジを通り抜け
(いつもはこんなに重い荷物を独りで運んでいるんだからね。)
女が嬉しそうに皮肉を言って取り出した袋に悪い心を詰めながら
(はい、それだけがぼくの人生ですから。)
きみはなおもこの舟を推すというのだろう
詩「午後の航行」最後の2連
強引にこの詩の最初の二連と最後の二連をつなぎ合わせて読み返してみると、後者での行頭開始の連では、行頭一字下がりの連で現れていた鳥男のことを「鳥男を幻視ることもなく」と表現しており、行頭一字下がりの連が幻視であるとも読み取れます。・・・といた感じで私は無駄な思考を巡らし、この詩集に対してお手上げに状態のまま読み進めることができないでいました。
遡ると、何の因果か著者の高啓氏は、私が高啓氏の最新の詩集『二十歳できみと出会ったら』の感想を書いたことをメールで伝えたところ、返信のメールを丁寧にもいただき、その文面の最後に「職業と作詩という観点で私の詩を読んでくださる方は少ないので、もう1冊詩集を郵送させていただきます。」とあり、この詩集『午後の航行、その後の。』(2015、書肆山田)を送っていただいたのでした。そんなことで、私は送っていただいた詩集の感想を書かなければならないことになりました。いざ書こうと読み始めたのですが、冒頭に書いたように出だしで躓き、焦れば焦るほど始末に負えない気持ちが沸き上がり、どうにもこうにも悪戦苦闘してしまう事態に直面し、かれこれ10ヶ月近くが過ぎようとしています。
高啓氏の詩を最初に読んだときに感じた印象は、人の気持ちを逆なでする乱暴な言葉使いをあえてしているというものでした。それがどうしてなのかあまり気にせずに詩集『二十歳できみと出会ったら』の感想は書き終えたのですが、この詩集を読ませていただくと、最初に感じた感情表出とも言える語群がやはり気になります。例えば、
するとあさっての悪心みたいな午後の眠気に堪えながら
女に就いての午後の航行がはじまる
詩「午後の航行」第2連の最後の2行
「悪心みたいな午後の眠気」という表現は、とても意地悪です。午後の眠気となると、食後の満腹感がもたらす恍惚とした眠気だったり、主婦であったら忙しい午前の家事を終えてやっと昼食を済ました後のほっとした時間に得られる幸せな眠気という既視感を持つのですが、ここでは「悪心」という言葉を使いそれら一切をダメにしています。ここに悪意を感じるのです。それに「悪心」というあまり日常では使わない言葉を詩語に持ってくることが、私には作者の強い意図として感じられます。
詩集『二十歳できみに出会ったら』は、行頭一文字や下げの連にはあまりその乱暴な言葉使いは感じなかったことから、この詩集もそうかなと読み進んだのですが、そうではありませんでした。あまり連の違いは関係ないようです。どちらかというと言葉を表出するリズムを作るために行頭一字下げの連と行頭開始の連をつなぎ合わせている印象を持ちました。乱暴な言葉使いが現れるのは、文章が行頭開始の連だろうが一字下げの連だろうが同じ印象を持ったということです。なんか相撲の仕切り直しをしているかのような仕草、あるいはこれでもかという感情エピソードの繰り返しです。
さて、高啓氏が私に職業と作詩という観点で感想を書けと課題を与えたのは、私が高啓氏と同じ県職員として働いていたということが前提にあるからです。そのことは最新詩集の感想に書いたと思います。ここから身勝手な私の感想を述べたいと思います。
公務員は感情労働です。一部、専門職の方など特殊な能力を発揮することだけを求められ、それに応えれば足りる職員は除かれると思いますが、住民の方と接する機会のある多くの公務員は、公僕として身をわきまえ、仕事で関わらせていただく方々には失礼のないようにしなければなりません。現在の役人には、国のキャリア採用の職員は別かもしれませんが、「お上」、「お役人さん」といった言葉に込められたあたかも殺傷与奪の権限を持った人、逆らうと不利益を被る怖い人という揶揄も含めた立場は全くありません。現在は逆に、公務員が個人として意思や感情を表すと、その途端に生意気だと言われ叱責を受け、もしそれへの反論とも受け取られかねない応対をしたなら、「また公務員が不祥事」という見出しでマスコミに実名で報道されることが平易にあります。
それが形となって現れるのが公文書です。役所の意思形成過程の中で担当職員の考えとして所見や判断理由などを書く場合がありますが、その多くは法律、条例、政令、規則、要綱、要領、前例を踏まえて整理されたものです。自由な意見を出して政策を作り上げる部署もあるでしょうが、そこには前提として利害関係を配慮した組織の意思が働いており、住民の方に触れる情報になる際には言葉遣いが整理されて攻撃を受けないように武装します。
もちろん人間ですから組織内ではある程度の感情を伴った意見のぶつかり合いはあるのですが、それは話し言葉として飛び交うだけで、決して文書には現れませんし、もし組織の中で露骨に感情的な言動をしたならば、その途端に出世コースから外されます。
公務員が仕事で扱う言葉はほとんど組織を守るために武装しています。個人の意思や感情は可能な限り綻びがないように、綻びとして見えないよう縫い合わされ、処理が施されます。公文書は例えば公文書規程や公用文の書き方などで漢字の使い方、送り仮名の付け方が決まっています。今はそれほどに厳しく審査されないと思いますが、個人が自由に表現できる文書は存在しません。特に、情報公開制度がはじまり、さらに個人情報の保護が厳しく求められるようになってからはなおさらです。
そんな公務員が詩を書いて発表するとなると、普段仕事で使っている文書作成のことなどは忘れてしまい、生活の時間の約半分を占めるであるはずの仕事のことは眼中から消える、あるいは消し去りたくなるはずです。なぜならば、輪郭線が曖昧な公務員としての守秘義務を、自由であるべき自己表現においても頑なに守らなければいけないからです。ですから必然に公務を切り分けて何の制約もない自由な表現ができる環境に立ちたいと思うわけです。詩を書くということはどんな内容であろうが自己表現にほかなりませんから、それがあくまで想像であっても誤解されることのないように仕事を題材にすることは得策ではないということになります。社会的な改革などの明確な役割を文章に持たせる論文のようなものならば別なのでしょうが。
高啓氏の詩の特徴は、あたかも公務員として抑えている感情を詩の表現に取り入れているということです。端的に書けば、詩を書くことで日常のうっぷん晴らしをしていると思えてしまうのです。違う言い方をすれば、詩の世界に仕事で抑えていた感情をぶち込んで、非日常を作り出しているのです。例えば、
肉売り場ではいまだに庄内豚とアメリカ産の価格差をチェック
それからとなりの区画の鶏肉が眼に入ると嫌な記憶がまた蘇る
鳥インフルエンザの野鳥対策で上層部のすまし女とやりあった
馬喰みたいな獣医師達とも怒鳴りあった
きみが持つ視界はだれにも理解されない
争うことの苦痛はいつまでもきみを苛む
尻出し男みたいにきみのゾレンは宙吊りにされる
詩「午後の航行、その後の。」第5連
舞台はスーパーの野菜売り場でしょうか、女の買い物に一緒についてゆくことが「午後の航行」としたら、その航路の途上でこの詩の主体に沸き起こる感情の起伏が描かれています。そのきっかけとなるのが、この詩の場合は鳥インフルエンザの野鳥対策での一場面です。鳥インフルエンザの対策は、広域の地方自治体である県の役割で、その対応の中心を担う職員が家畜衛生保健所の獣医師です。打合せの中でなにか気に食わないことがあったのではないでしょうか。そのことがスーパーの肉売り場で鶏肉を見た瞬間に感情として湧いてきたらしいのです。
これを現在進行形の、新型コロナウイルスの感染対策に置き換えてみた場合、感染症の専門の医師などの専門家の意見に従って実際の対応を行う行政の職員という構図なのでしょうか。感情労働とは、感情を表現して働くことや相手の気持ちや感情に丁寧に配慮して働くことではありません。その場面、場面で沸き起こる本来の自分の感情を押し殺して働くことでもありません。それは人間の感情に繋がる接続点をパカッと音を立てて予め消しておくこと、そんなことではないかと思います。そこに本来の自分は存在していないのです。
初孫を抱く
ひとは目に入れても痛くないほど可愛いというがそれほどでもない
自分が親でない分だけ無責任で抱くのだが
無責任に抱いて自分の息子たちが叶えてくれなかった夢を託す
っていうことだけはやめようと想っている
そのくせこれからは容易ならざる時代を生きなければならないと
要するに同一化と客観化とが綯い交ぜになった感受がくる
ただせめてこの土地の山や川に連れて行こうとは想う
けれどそれさえ堪え難い苦しみかもしれない
詩「初孫論」冒頭の一連
実生活で詩人が「初孫を・・可愛いというがそれほどでもない」と公言しているか、していないかは別として、そのことを正々堂々と語ることは気が引けることです。これもまた先に引用した詩「午後の航行」での鳥肉と同様に、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いたことをきっかけとして、子供に「夢を託す」ことに関する過去のことが感情として沸き起こります。
ここでは普段の生活のことが語られています。この詩集の収められている作品のほとんどは、冒頭に長々と書いた〈公務員〉とはなんら関係のない事柄で占められています。
要するに、公務であろうがなかろうが、生活の中で押さえている感情を詩語の中で解き放ち、それを非日常の中の詩語に置き換え、読む者に高啓の詩の世界を味わってもらおうとしているかのようです。ですから、詩集『午後の航行、その後の。』の感想を「職業と作詩という観点」で書く意味はほとんどなくて、書いたとしてもかなり屈折したものになってしまいます。むしろ考えなければならないのは、作者はどうして、感情にまつわるエピソードを敢えて作り出して非日常を表現しようとしたのか、ということだと思います。そこに詩人高啓が詩を書き続ける、公務員とはなんら関係のない、理由があるのだと思います。
最後に、高啓氏の詩語は、私の場合は特殊なのか、私の感情にビシバシと響いて刺激してくるのです。それにいちいち反応してしまう自分は、どうも高啓氏の詩の世界に巻き込まれてしまったのではないかと思った次第です。
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