瀬崎祐個人誌『風都市』第39号

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 とある遠方で開催された勉強会でオランダの精神科診療所とオンラインで結び、油粘土を使ったアートセラピーの模擬体験をした。事前にはなんの説明もなく、遙か海の向こうのオランダのセラピストの指示に従って私たちは粘土を捏ねて形を作った。

 「目を瞑って自分の周りに手を伸ばし、自分の身体が立っているその場の空間を感じてください。次にその空間を感じながら粘土で四角い立方体を作ってください。それは椅子です。今度はその椅子の上に座っている人を作ってください。自分の足や腕や胴体、そして頭に触れて感じながら丁寧に形を整えてください。できあがりの形の善し悪しは関係ないです。大切なことは自分を感じながら丁寧に形を作ることです。」
 
 そうやってできあがった椅子に座った人はいびつでへんてこりんな姿をしていたが、まぎれもない人の形であった。そして、大切に家に持って帰るまでがセラピーですと言われ、帰宅するまでの間、私は大切にそれを扱った。今、自宅に帰った彼が、私の目の前にいる。それは自分にとって、とても大切なものに思える。

 瀬崎氏の詩に対する私の印象は、それに似ている。それとは、油粘土の人間に似ているのではなく、形をつくるわたしの意識や大切に作った人形を見ている私の思い、そこに至るまでの気持ちの動きが似ているのである。


   それでは楽にしてお待ちしてください
   
   それではって
   今まで何があったのだろう
   手錠をはめられた女がいぶかしがる

               詩「有罪」第一連及び第二連


 この詩は表題から推測できるが、有罪の判決を受けて手錠をかけられ収監される女性がいぶかしがっている情景である。しかし、一連目と二連とではどうも繋がっていないと思う。理屈で言えば、罪を犯し収監される人に「楽にしてお待ちください」と裁判所の事務官が相手を気配って語りかけることは普通ないだろう。そして、裁判での審理を経て有罪が確定したという紛れもない過去の事実認定がされているにもかかわらず「それではって/今まで何があったのだろうか」という疑念が湧くことはどうしたっておかしい。もし、この女性が何も罪を犯していないと考えているのなら、不当判決だと言うことでいぶかしがるだろう。でも、そうではないらしい。

 ではいったいどうしたというのだろうか。

 今号で瀬崎氏は「有罪」の他に「さいじょう」と「ぜんせい」の2作品を掲載している。どちらの作品も瀬崎氏の詩が持つ「いったいどうしたというのだろう」という途方に暮れてしまう魅力に富んでいる。

 そして答えは用意されていない。


   ここまでおいで
   地図のなかから手の鳴るほうを知らせる声がする

               詩「さいじょう」十行目からの二行


 この詩行は、幼い兄弟がラジオ塔が建っている山を登っているときに、「兄はさっさと先に行ってしまった」状況で取り残された弟が聞いた声として文脈では現れる。地図を頼りに山頂を目指し歩いているときにひとりぼっちになったとしたら、地図が歩く方向を教えてくれることはあるだろう。それがあたかも「声」のように感じることはあるだろう。そしてその声が幼い子供に「こっちだよ」と声を出し、手を打って鳴らして教えてくれることもあるだろう。でも、私は手を打って鳴らす人と、それを教える声は違う世界にいる別の人に思えた。・・・いったいどうしてだろう。
 それは次の詩行が前提にあるからかもしれない。


   幼かったおまえたちと
   地図を頼りにこの山を歩いたことがあったな

               詩「さいじょう」五行目からの二行 


 過去の出来事が現在進行形で進み、声の主はどこにいるのだろうと思ってしまう。そして、手を打っている人間は誰だろうと思ってしまう。ここでまたわたしは途方に暮れるのだが、ではそこで読み進めることを放棄するのかといえば、そうではなく次の行を読んでみたくなる。そしてぼんやりとしたものが私の中に感覚として生まれてくる。その感覚とはいったいなんだろうかと思うのだが、そこを読み解く力は私にはないし、敢えてそれを言葉で書き表す作業は批評家でもない一読者の私には必要ない。


   ガラス窓の外にはりだした花台に
   弟と並んですわっている
   少しせまくて
   わたしの右腕と弟の左腕がぶつかっている
   お母さんは隣の街へ買い物にいった
   だから今は
   忍びこもうとする悪い人たちから
   この家を守らなくてはいけない

               詩「ぜんせい」最初の七行


 この詩の出だしは平易な言葉で始まる。そして後の詩行では、


   通りかかったおばさんは
   ふたりで仲がよくていいわねと言うけれど
   ほんとうは弟にはもう何年も会っていない
   ぶつかっているはずの腕は
   どこで絡み合っているのだろう

               詩「ぜんせい」十四行目以下五行


 一緒にいた弟が、実は何年も会っておらず。ぶつかっていた腕は絡み合っていて、それがどこで絡み合っているのかわからないと言う。ここでわたしは途方に暮れる。

 瀬崎氏の詩は巧妙な何かの喩えであるとは思えない。絶対的な必然があって出てきた言葉に思えてしまう。でもその言葉がほんとうはどんなことを語っているのかよくわからない。いったいどうしたというのだろうと本当のことを知ろうとして探りを始めると、取り止めがなくなり途方に暮れてしまう。途方に暮れるとは、意味を見出して過ごしてきたことが実は大したことではなかったり、逆にどうでもよかったことが実はとても大切なことだったと後で気づいてしまうこと、そんな感覚ではないだろうか。すなわち、不意打ちを喰らうということである。

 この感想を書いているときに、2021年7月1日の朝日新聞朝刊の教育欄の紙面に、「明日へのLesson 特別編 著者がとく 小川洋子さん」と題した企画記事が載っていた。この企画は、小説家小川洋子氏の作品『ことり』が東北大学の国語の入試問題に出され、その設問を作者自らに解いてもらうというものある。設問は、小説の主人公である「小父さん」が思いを寄せる女性に声を掛けられ狼狽した理由を問うものであるが、解いている小川洋子氏は、文章の最後でこう書いている。「私の答えも合っているんだか、間違っているんだか。だけど、人間の世界はそもそも曖昧なもので成り立っています。[・・・]それよりも、受験生の方々が『ことり』という小説に出会って、小父さんにひととき、心を寄せた。その体験が何らかの語りで記憶に残って欲しい。文学との出会いは、それぐらい意味の深いものだと思いますから」


 私が油粘土の人を作りそれを大切に思ったということは、瀬崎氏の詩を読んで途方に暮れることや小川洋子氏の小説に登場する小父さんに心を寄せることと同じことのような気がした。それは難しいことを意味はしていない。少しの時間、なにかに思いを寄せることができること、そういうことなのかもしれない。

 少しの時間とは、そこに到るまでのその人の、とてつもない長い時間があってはじめて生じる時間なのかもしれない。

 



 



 

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