詩誌『卓上作法』第3号

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 北九州在住の文学研究者で詩人でもある岩下祥子氏が創刊し、編集(編集部が編集なので、他の方々も参加しているかもしれません)を行っている詩誌『卓上作法』(table manner)第3号(2021年1月22日発行、非売品)が届きました。岩下氏とは彼女の研究論文が縁で一度、詩誌『回生』が主催して行っていた「無意味な意味の尾形亀之助読書会」にゲストとしてお呼びして、講和をしていただき、それが縁でこのように時々、詩に関する書物を送っていただいています。

 詩誌『卓上作法』は、岩下氏が国語(近代文学、日本語文学論等)の教壇に立っている高等専門学校の生徒さんを同人とする詩誌です。ですから詩の書き手は20歳代前後の若い方ということになります。そこに、岩下氏が加わり形ができあがっています。詩誌の題名からすると、先生が詩の作法をテーブルマナーの講習会みたいな感じで実地に教えているということかなと、3号目にして初めて気づいた次第です。
 
 この詩誌は前提として4号で廃刊となることが最初から決まっているので、もっと創刊号のときからそういう物理的な目標あるという観点で読むべきだったと思ったのですが、時遅し、私は漠然と、ただただ詩の同人誌なんだなと言う捉え方をしてしまい、もう少し同人誌として掲げている創刊の意図を考えるべきだったなと、ちょっと勿体無いことをしたと思っています。しかし、よく考えてみればそんなことを気にせずに読めたのは幸運だったという気もしないわけではありません。「幸運」と言うことにどれほどの意味があるかはわかりませんが、この第3号にして、ハッとする言葉に出会えたことは私にとってはとても幸運だったと胸を張って言えそうなのです。それは前の号2冊をただぼんやりと眺めていたからなのか、そうではなくこの第3号にして彼らの覚醒が起こり始めたのか皆目見当がつきませんが、それは私にとって幸運であることには違いはないのです。

 現代詩について考えれば、詩を書くことに、韻を踏まなければいけないことや余白を伴った改行詩でなければいけない、などといった作法が特にあるわけではなく、それは岩下氏も先刻御承知のことなのだと思うのですが、そこをあえてテーブルマナーという名の詩誌を発行することはどうしてかと、今更に考えてこの文章を書いています。

 例えば、中村美月氏の「じゆ」を引用させていただきます。

   角があったら手を振り下ろします
   痣はタトウ
   携帯の画面くらい暗いリビング
   自分に彫る道具を探しましょう
   体が燃えるのを感じたら本番です
   手の中のひもがばちぶち鳴りそうなくらい
   いつも決まって左の腕を
   いつも決まって第二関節から
   静かにうるさくぶちばち
   新品の食器棚
   スプレイ缶の裏のまる
   手の甲は死んできた手のひものぶんまで
   私のためにあつくなってくれた
   こんなにきれいになりました

               詩「じゆ」最初の15行

 一見、言葉遊びのようですが、多分、作者の中では様々な事物が行き交い、ばちぶち構成されて日常になっているのだと思います。なんか妙に訴えてくるものがあります。何を訴えているのか60代のおっちゃんである私には皆目わかりませんが(言葉は生き物なので年齢の違いによって明らかに使い方の感覚が違ってくると思います。ですから私の言葉で周辺をなぞることはできてもどうしても私の視点でしか捉えることができない限界があります。)、訴えてくるものがあります。ありきたりな言い方をすれば、制度、慣習、他者、自分自身などなどあらゆる身に降りかかるものに対する<訴え>となるのですが、それだけでは収まらない荒々しさがあります。それは誰それから借りてきた言葉ではない、若しくは枠から外れることをいとわない荒々しさといえるのかもしれません。自分自身の核となるものの得体のしれなさ、ざわめきみたいなものを自分が実感できる名指しされている<もの>を使って表現していると感じます。それを私は<訴え>と書いています。

 中村美月氏の作品を読んでいると、詩の作法とは会得した自分自身のと思えてしまう言葉で、借り物の文字を使い、借り物ではない自分を表現することの楽しさ、あるいは苦しさを識ることがテーブルマナーではないのかなと思ったりもします。そう考えると、型にはめず、自由に表現をすることをこの詩誌『卓上作法』ではさりげなく若い同人たちが身につけているのではないかと疑うのです。<疑い>とは、実際はわからないからですが、言葉が意味から縛られていない表現がこの詩誌の中に満ちていることは強く感じます。それだけに疑心暗鬼が生じるのですが、それもまた楽しいと思わせるものがあります。

 次に、芽惟氏の作品を全編引用させていただきます。

   すっぱ甘い果物の種を口に含んで
   机の椅子の上にあぐらをかく団扇
   はあるがないうでを指でなぞって
   腕毛を逆なで頭まで達したところ
   で髪のどこまでをなぞるか悩みた
   い走って追いついた手段に身を嵩
   ばらせてぜえぜえ金属の温度で沈
   ませる土踏まずっていつから失く
   なるんだろう途中、海でいや画面
   で観測した茶色のガラス片を幅正
   面で見ると木に擬態した虫と同じ
   に見えましたつくろいましたこの
   習慣でさえもこだわっているのね
 
               「虫」全編


 この作品は、<小詩集>アポイントメントの中に収められている4篇(そのうち1篇は「それでもいかい」という表題の短歌8首の作品)からなります。)の中の1作です。散文詩ともいい難いです。

 なんだろう、この疾走感は、とまずは思いました。例えれば、あいみょんの歌の歌詞の疾走感を彷彿とさせます。しかし、芽惟氏の言葉には旋律はありません。唄になる言葉以前の言葉が書かれていると思います。それは<未完成>というものではなく、強いて言えば<自由な可能性>ではないかと思うのです。私はなぜかこの詩に懐かしさを感じます。どうしてなんだろうと思うのですが、誰でも記憶の中に消えている思い出があり、知らず知らずに断片かあるいは結晶なのかわかりませんが、急に自分の目の前にその記憶がこぼれ落ちるときがあります。よく解りませんが、この詩にはその落ちこぼれて蘇った記憶が書かれていると思ったのです。そして、それは誰のものでもなく、持ち主不明の存在になって落ちているのです。懐かしいとはそういう得体の知れないことです。

 中村美月氏の作品も芽惟氏の作品も、自分が持っている感覚を表現しようとしていることはとても強く感じます。表現方法は言葉である必要はまたくないのですが、この詩誌に集っている各氏は言葉での表現に対して、それぞれの理由で興味があるのだろうと思います。


   風気が髪束ゆうゆうゆう
   カフェラテをひっくり返して
   キャンバストート
   すくい上げる仕草
   3人いたなら夏だけください
   オーストリッチの音はどの角度
   等間に並んだ黄色の椅子つづく
   箱のすきまにおちて届かない音
   ストライプはくりかえしの指揮
   相対性は及第点
   放物線から消滅点
   この感覚は、ぼくだけのもの

               詩「ストライプ」全編

 豪氏の作品です。最終の行に書かれている「この感覚は、ぼくだけのもの」という言葉がこの詩のことをまさに表しているのではないでしょうか。かつて岩下氏が書かれている文章で、詩は抽象的なものであるという言葉に出会った記憶があります。この詩で書かれている内容は具体的な事物や出来事が断片的に並んでいます。それゆえ前後関係は日常の生活の中のこととして考えてみるとよく理解できません。自分の気持ちや感情を読者に伝えようとすると、読者に心情を理解してもらう作業が必要になります。しかし、豪氏の作品はそれら気持ちや心情を伝える情景を映し出す作業を詩という概念から弾き出しています。その純粋さが見事です。そして、豪氏は自分の中に存在するよくわからないけれどうごめいているものをなんとか取り出そうとしているように思えます。抽象的なものとは、自分が何者であるかをいかなる方法かで抽出する作業のことと言っても良いかもしれません。
 豪氏に限らず、前に紹介した中村美月氏、芽惟氏にしてもそれぞれのやり方で自分を語っているということなのかもしれません。

 最後に、編集の岩下氏の作品です。彼女の詩については、詩集『うさぎ飼い』の感想を書いたときにその輪郭に少し触れたのですが、結局、私はよくわからなかったのです。今号では企画を除くと「いなくなる」という作品を載せています。わたしは、この作品を読んでいてプルーストの『失われた時を求めて』を読んでいるような気持ちになりました。単純に私が最近になって、プルーストの『失われた時を求めて』を読み続けているからなのだと思うのですが、延々につづく退屈でもあり魅力的でもある人の営みを一人称でこと細かに語り続けている、そんな印象を持ちました。「いなくなる」とはいなくならない自分が続いているという、どうしようもない事実を埋める確認することなのかなと思ったりもします。

 最後に岩下さんの詩「いなくなる」の最後の第3連を引用させていただきます。

   稲妻が色づいてフローレンスの前髪みたいに
   揺れるまで
   安息日を守ってはたらく
   あと何百回ストッキングを履くのでしょう
   下半身は繊維でしばられて
   家族がいたとしても
   孤独をまもっている

            詩「いなくなる」最後の第3連

    

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