
岩下祥子詩集『うさぎ飼い』(発行:2020年11月30日、発行所:石風社)は、彫刻のような詩集です。それもブロンズのゴツゴツした肌触りのある、手のひらに載りそうで、それでいて全体像が見えない。どのように認識すれば良いのか分からない言葉達です。でもしっかりと形は見えるのですから厄介なのです。
私の理解はこうです。気兼ねなく大きく広げられた紙があり、そこにはたくさんの言葉が書かれているのですが、玄関の間口が狭く、その大きな紙は二つ折りに畳まなければ取り出すことができない。そこで問題となるのが、<私>はその紙に何が書かれているのかわからず、狭い入口から手を出すこともできず、どうやって二つに広げられた大きな紙を畳んで取り出してよいのかわからないもどかしい状況なのです。
もっと具体的に書くと、折り畳まれた短歌を寄せ集めたような詩です。短歌は音韻と言い換えてもよいです。例えば
ちがわない人と受話器越しに喋っていた
い。その唇はこの声の何秒前に発音して
いるんだろう。天井から見てみたい。部
屋は予想通り片付いているだろう。予告
しなくちゃ。火曜日の夜、上から覗きま
す。私が見たくないものは隠してください。
注:最終行は句読点半角処理
詩「たまくらに」第1節
この詩片をひらがなだけで以下の表記させていただきます。
ちがわないひとと/じゅわきごしに/しゃべっていたい/
そのくちびるは/このこえの/なんびょうまえに/
はつおんしているんだろう/てんじょうから/みてみたい/
へやは/よそうどおり/かたづいているのだろうろう/
よこくしなくちゃ/かようびのよる/うえからのぞきます/
わたしがみたくないものは/かくしてください/
どうでしょうか?漢字仮名交じり文と大して変わらない印象を受けます。それはどういうことかと考えてみるに、それはこの文章の冒頭に書いたことで言えば、折り畳まれて出てきた韻文だからだということです。出口を出る時、すなわち詩分になるときですが、発語のときに取り憑いてきた言葉だけを残して他は置いてきて、残った音を繋いで、再び漢字仮名交じり文で表記しているのです。視覚で捉える文章というよりも黙読でもいいから(多分黙読が一番ふさわしい)音として味わう詩集かなと思います。
どうしてそんなことを私はしなければならないのか。他の人が書いた詩だって同じじゃないか。そうなのですが、何かが違います。その「違う何か」は何か。
詩「膨れ」から引用させていただきます。
あなたとの電話が減って発声は授業を
するときだけ 強くなければいけない
繕ってると困惑させるから強い人にな
る 先生になる 猫パンチみたいな学
生の発声がその日のお風呂にまでこび
りついて身体はふやける 子どものと
き、お母さん以外みんないなくなれば
いいと思ってた バニラアイスにバナ
ナを添えてハーシーズのチョコレート
ソース クーラーを効かせて火サスの
再放送を見るんだ 「じょうじょうし
ゃくりょう」があるといいねと母は言
った 情状を酌量したい 時々された
い
詩「膨れ」第4連
比較的紋切り型で書かれている言葉は、生まれた時には続きのある物語だったのではないかと想像します。そう考えるとこの詩集に書かれている言葉達は枕詞のような修辞語、あるいは言葉遊びなのではないかと思えてくるのです。
あとがきを頼りとして書くと、作者の中にいる<うさぎ>が自由勝手に飛び跳ねて、時には静かに草を食べ、何やら言葉を発して遊んでいる。そんな作者の中の自分じゃない自分を採譜し、詩語として整えたものではないかと思います。
ここまでは、この詩集を味わうための私なりの作業を書きました。どうして作業のことを書いたかというと、作者である岩下祥子氏は長年、大正から昭和初期に活動した詩人尾形亀之助の数少ない研究者として、私がずっとこれまで岩下氏の著作を読んできたため、どうしても尾形亀之助の詩の匂いを岩下氏の詩に感じようとすしてしまう読み解きが無意識に私の中で働くからです。その厄介な関係を一切取り除いて読後の感想を書くためにこんな変てこりんな遠回りが私には必要だったということです。
この詩集は、言葉で何かを伝えようとする意図はあまり感じないです。だからと言ってそこに書かれている言葉達が何かを伝えてこないのかと言えば、そうではありません。では、何のためにこの言葉達は生まれてきたのか、それは書いている作者自身の存在がそうさせているのではないかと思います。そういう意味では言葉と身体との間に齟齬はないと言えるのではないでしょうか。そう感じます。
こういう作業を通じて読んでゆくと、とても色や形が鮮やかな無垢な人の世界が現れてきて、すらすらと読めるのです。言葉が心の中に入ってくること、そのことだけでいいのでしょうと納得させられる詩集です。
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