個人誌『風都市』第38号

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 詩とは一体何のために書くのだろうか。書く目的などないのだろうか。ただ書きたいから書くのだろうか。読んでもらいたいから書いているのだろうか。瀬崎祐氏の詩を読んでいて、そんなことを考えていました。人それぞれに詩を書く理由は違うのでしょうが、この人はどんな思いで詩を書いているのだろうかと真っさらになって考えたくなったのです。

 それだけ瀬崎氏の詩が何を伝えたいのか分からないということなのですが。それが瀬崎氏の詩の魅力なのだと思います。難解なら難解で理解できるのですが、そうではなくて、わかりやすそうで何かがずれているので勝手に読み手が勘違いをしてしまうというわかりづらい魅力です。読み手に何が伝わろうが自由だし、作品として世に出たからには後は読み手が受け止めたことが、作者の意図とは関係なくその詩になるわけですが、そこに確信を持てないところが良いのですね。

 この頃私は北園克衛の最初の詩集『白のアルバム』に収められている圖形説と名付けられた章に入っている視覚詩とも呼ばれる図形のような詩を活字を組んで再現する試みを行なっているのですが、その後に続く北園克衛のプラスチックポエムまでを視野に入れて考えてみると、事物の意図的な配置により構成された空間を写真に映し、それを印刷して詩として提示する試みは、詩に現れてくる言葉の意味を否定または剥奪し、あるいは意味を過剰化し、あるいは一旦差し置いて、新しい瞬間を時間から取り出そうとして新たな世界を提示していいるのだろうなと思うのです。つまり生きているということですが、そのような価値観を変換するための装置のような整形的な詩のことを考えていると、瀬崎氏の詩はとても人間らしいのです。生きているということと人間らしさということとはちょっと違います。人間らしいということは捉えることのできない生命感が溢れているという感覚です。そして、確信を持てないとはそういうことだと考えたりもします。

 詩「廃業」を引用させていただきます。


   掃除請負人になろうと思った
   そのための訓練もおこなってきた

   たとえば椅子のあいだに張った綱を静かに揺らす練習とか
   棚のすきまに葉物野菜を植えつける練習とか

               詩「廃業」最初の2連


 どうして掃除請負人になるためにこんな練習をするのだろうか。私だけが疑問に思うことではないような気がします(もしかして私以外のみんなは何の違和感を持たないのかもしれませんが。)。そして何かを例えているとも、この具体的な仕草からは私は思い浮かばないのです。

 そうこうしているうちにこの詩はコロナ禍でお客さんが減ったお店が閉店して飲食店を廃業することを題材にした詩なのだろうなと思うのです。「倒れた酒瓶から滴り落ちて/人を酔わせた愚痴や夢物語もあっただろう/教えてください」(第3連全4行中の最初の3行)。


   それも拭き取ってしまうのですか

               詩「廃業」第3連全4行の最終行


 なんとも切ない詩行です。切ないだけに第2連の2行がへんてこりんに浮かび上がります。

 詩に意味など無いのですが、言葉には意味がどうしてもつき纏います。絡み合い、誤解や曲解を生み、共感を伴い、変容を経て変態を生みます。時には集団となって襲いかかってきます。瀬崎氏の詩はそれらをやんわりと払い退け、言葉としての意思伝達機能を言葉そのもののためだけに使い果そうとしています。それは多分、人間らしさを取り戻すための瀬崎氏なりのギリギリの表出、詩を書く理由なのだろうと思います。

 個人誌『風都市』第38号には瀬崎氏の詩が3篇収められています。一番親しみを覚えたのが「ふくろだ」という作品です。それは私がかつて袋田温泉に泊まろうとした体験があるからだと思います。実際に宿泊したのは袋田の滝がある温泉街からかなり手前の古ぼけて安っぽい和風のビジネス客向けの旅館でした。よく確認もせずに駅に近いという理由だけでその温泉風呂もない旅館を予約したのでした。辺りには何もなくただ国道らしき舗装道路が駅から袋田温泉郷へ通っているだけでした。日が暮れてから旅館に着いたので、暗闇の中何も見えない道の先を眺めながら、この先を行くと賑やかな袋田温泉があるのだろうな寂しい思いに駆られたのでした。


   ふくろだの滝にむかう道は迷い道だ
   いきどまりのようなのに
   いつまでももどれない

              詩「ふくろだ」最後の3行


 まさに私にとって袋田の滝に向かう道はたどり着けなかった迷い道なのですが、ただ迷った経験があるから「迷い道」ではなく、行こうとしてもいつまでもたどり着けずに気がつくとある地点にもどってしまう私の中の「ふくろだ」なのです。そこに言葉の意味はあるようでないのです。それが人間らしさということなのだと思います。

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