朝倉宏哉詩集『叫び』

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岩手から発行されていた詩誌『火山弾』の同人で、その後『火山弾』を引き継いで発行された詩誌『堅香子』に私が入会するに当たってお世話になった千葉市在住の詩人朝倉宏哉氏の最新詩集です。詩集の最後に書かれている略歴を見る限り、8冊目の詩集でしょうか。発行は2019年11月3日、発行所は砂子屋書房です。かなり前に感想の8割方書き終えていましたが、掲載が遅くなりました(その辺の言い訳は後の文章にちょっと書いています。)。

朝倉氏の詩は透き通った清楚な言葉から成り立っており、岩手の詩の鉱脈を引き継いでいるという印象がありました。岩手の詩の鉱脈とは何かと問われれば、ありきたりなことですが、宮澤賢治、村上昭夫、内川吉男と続く、日常を突き抜けた普遍性と岩手の土質や空気を感じさせるひんやりとしたものです。

ちょっと朝倉氏のことから外れますが、詩誌『火山弾』の同人の方の詩には、二つの特徴があったように思います。一つは、宮沢賢治を彷彿させる純粋で透徹した言葉の感覚、もう一つは身近で起きた出来事、身近にある事物を客観的な視座を持って丁寧に表現するというものです。その中で朝倉氏の詩は、どちらかと言えば前者の感覚が強いではないかと思っていましたが、前作の詩集『乳粥』(2006年発行、コールサック社)では、二つの方向が溶け合って、時間の流れに沿って言葉が無理なく進んでゆき、読み手がどんどんと引き込まれてゆく魅力を持った作品となっていました。

この感想を書くに当たって詩誌『火山弾』を仕舞っていた段ボールの箱から取り出して読み返してみたのですが、朝倉氏の詩は私が思っていたのとは違って生活感のある詩、前の文章で言えば「身近で起きた出来事、身近にある事物を客観的な視座を持って丁寧に表現する」詩でした。この私の印象の落差はなんだろうとずっと考えていたのですが、答えは出てきません。それでこのブログに掲載するのが遅れに遅れました。最初に朝倉氏の読んだ時の記憶が私には明確ではないようです。私は朝倉氏の詩を詩誌『火山弾』の同人という先入観だけ捉えていたような気がしてきました。

朝倉氏の詩は詩誌『火山弾』の中ではちょっと異質だったのかもしれません。今回の詩集を読んで朝倉氏の詩はもっと親しみやすいものなのかもしれないと感じたからです。この「親しみやすい」という表現は、逆に捉えれば詩誌『火山弾』が取っ付きにくいということに読めるのですが、そうではなく「親しみ」とは、私との距離のことで、客観的な視座がそれほどに遠くないという意味です。

この詩集『叫び』は、作者が後書きで「私の詩のほとんどは実体験から得たものが核になっており、分かりやすい表現を心がけているので・・・」と書かれているように、作品に対して余計な思考を使わずに、言葉を読み進めるその時間そのままに、詩の時間も、伸び縮みすること無く優しく寄り添ってくれます。詩表現にありがちな、言葉を使って言葉以上の見えないものを表現しているのではないかといった謎解きのような疑心暗鬼を持つこともありません。言葉は静謐で、感情の起伏もそれほどにありません。なので、却って詩集の題名である「叫び」という言葉がちょっと意表を突いています。この詩の最後の10行を引用させていただきます。

みんながおれをそれとなく避けているように感じる
もしかしたら 生きているのが錯覚で 死んでいるのが
本当でなかろうか おれはガバと跳ね起きた ひんやり
とした庭に出た 暁の空を仰いで深呼吸した それから
四股を踏んだ 摺り足を繰り返した 木蓮の木にテッポ
ーして叫んだ エーッ ヤーッ エーッ ヤーッ エー
ッ ヤーッ

白い花びらがポタポタ落ちる ポチが怯えてこっちを見
ている

詩「叫び」最後の10行


この詩の最後の2行はとても朝倉氏らしい表現ではないかと思います。岩手の詩の鉱脈と言ってもいいかもしれません。この花の白の白さは、前作の詩集『乳粥』の白さと共通するものがあるのではないかと勝手に想像します。乳粥は、牛(あるいは山羊)から搾り取った乳で作ったお粥です。お釈迦様が悟りを得るときに、断食で弱った身体を回復するのに供養された聖なる食べ物です。故に生命感がとても強く感じられるのです。この白さは朝倉氏が持つ、固有の生命観を表したものではないかと思うのです。

命に対して、「ポタポタ落ちる」、「怯えてこっちを見ている」という言葉遣いはとても不安感を持たせる厳しいものです。身近な人を次々と失ったとあとがきで記す朝倉氏の思いが強烈に強い言葉に向かわせたものではないかと思います。乳粥の「白」と、叫び終えた後に見えた「白」は、紛れもなく同じ命ではあるのですが、それを見ている作者はいのちは儚さと永遠の境で立ちすくんでいると思わずにはいられません。


穏やかな作品としては、詩「こころの姿」は平易な例えが連続して、リズミカルでとても心が和む作品です。こころが目に見えない代わりにいろんな表現を使って物理的に存在するものとして表現されています。例えば第1連と第5連引用させていただきます。

こころが折れる と言う
こころは棒のようなものなのか
折れるとき
ボギッと音を立てるのだろうか
どのようにして復元するのだろうか

詩「こころの姿」第1連



こころが縮む と言う
こころはゴムひものようなものなのか
縮んだら伸びる筈
伸縮自在なゴムひもであやとりをしたら
どんなこころができるのだろうか

詩「こころの姿」第5連


そして最後に

こころは捉えがたい
己を見つめることは
己のこころと向き合うことだ
それなのに
ぼくはこころの姿を描けない

詩「こころの姿」第6連


作者は、ぼくにはこころの姿を描けないと書いてこの詩は終わっています。心の姿は誰も知りません。「描けない」とは当たり前のことを言っているのですが、この作品はそれ以上のことを表現しています。つまりこの詩を読むことで、心の中にはしっかりと「こころ」がすぐにでも手に掬い取れるほどの姿で存在していることが感じられるということです。その手応えが理屈ではなく、思い込みでもなく、素直になにも考えなくても、思考の回路を伝わらなくても、すーっと心に入ってくる言葉です。それが実感できるところに命(いのち)を感じます。


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