駒村吉重『おぎにり』

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 ある一つ世界が完結している印象を持つ詩集です。そんな感想を持つ詩集に出会うことは、私にとってそんなに多いことではありません。「ある一つの世界が完結している」ということは、その「世界が完結しない世界」ということでもあります。

 駒村吉重氏の詩集『おぎにり』(2018年5月2日発行、発行所:未知谷)の感想を書くと、この数行で十分ではないかと思ってしまいます。ですから、これから先へと書き進める文章は余談ということで目を通してください。

 収められている53篇の作品から、どうしてそのような感想を私が持ったのか。短い詩「はりがね」の全文を引用させていただきます。

   はりがね一本ありました

   まっすぐではない
   うねっている
   うごかない
   しゃべらない
   つかいみちがない

   これでいい
   こうでなくちゃいけない
   いっさいははりがねの意志

   はりがね一本そこにいます

               詩「はりがね」全文

 なにげない、ついこれといった印象も持たずに読んでしまいそうな作品です。それだけに、この作品がどうして詩なのだろうかと不思議な気持ちになります。同時になにか落ち着き処のない、居心地の悪さを感じます。それは、私だけな感想なのかもしれませんが、なにか落ち着かない不思議さがこの詩集全体にはあります。それは、誰かに騙されているわけではないのですが、自分を欺いている自分がいるという、疑いだしたらキリがないことなのかもしれません。どうして自分を欺くかというと、例えば欲があるからだと考えれば、合点がいくことがあるかもしれません。様々な欲は、時に自分を見えなくしてしまいますし、逆に自分をはっきりと見せてくれるときもあります。そのときの見えている自分は、果たしてどんな自分なのでしょうか。蜃気楼として見えている幻の自分なのかもしれませんし、過去の自分なのかもしれません。そのときどきの自分は、そのときどきの自分でしかない。覚束ないのです。この世間の決まり事のことをを考えれば、合点がいくかもしれません。こうでなければいけないということは、そのように人間が決めたことに過ぎません。この世の中で絶対的なことはありません。ただ、単に皆が守らなければならないと思い込んでいるだけなのです。しかし、守らなければいけないと思っていたことが、状況が変われば、実はどうでも良いことだったということはよくあることです。

 この詩「はりがね」で言えば、落ち着き処のない居心地の悪さは、最後の一行、「はりがね一本そこにいます」という言葉にあると思います。この詩の最初の行は、「はりがね一本ありました」と断定の言葉で始まります。しかし、最後の行は、現在進行形の言葉になっています。これは、主語である「はりがね」が、はりがねとしてこの世界で認識をされていることを最初に確定しておいて、最後で「そこ」だけの、今だけの現象あるいは事実として「はりがね」の存在を言い表しています。そこで認識しているのは自分なのですが、最後でははりがねは自分と関係なく事実として存在していると、この詩は書かれています。最初の二連と最後の二連とで、大きな隔たりがあります。最初の二連は確固たる「完結した世界」です。そして、最後の二連は次々と現れる続ける事象である「完結しない世界」と言っても良いと思います。

 はりがねがあることを断定している自分は、実は、断定できるものではなく、そこにはりがねがありますと言うことしかできないという不確かさしか持ち得ないことを、主体を逆さにして表現した言葉です。主体を逆さにするためには、梃子のような中心点が必要ではないかと思います。「完結」と「未完結」、「絶対」と「相対」、「確かさ」と「不確かさ」、逆さの世界がどっちが本当は逆さなのか、誰もわからないのかもしれません。対立する関係は、どちらも必要なものです。どちらかが全体を覆ってしまったら、薄っぺらな、あるいは混沌とした秩序のない世界が生まれてしまいます。そして、中心点は人間の意識の中で絶えず動いています。

 そういう意味では、表題詩「おぎにり」は象徴的です。駒村氏のおにぎりの絵があって、「おぎにり」です。「おにぎり」の間違いではないですかと、つい言いたくなりますが、堂々と表題に大文字で書かれているのですから、作者は意図的に「おぎにり」を「おにぎり」と思わせようとしています。私がおにぎりを「おにぎり」と意識するのは、モノがあって、それがおにぎりであると無意識に思ってしまっているからです。それは、自分自身が生活の中でそういう認識をするように作られて、あるいは作ってきからではないでしょうか。そうしないと、この世界で生きてゆくのは大変不自由です。しかし、実は不自由と思っていることが本当は自由なことで、自由と思っている人間の生き方が実は不自由だったりします。

 と、詩の中を右往左往していると、迷路に入り込んでしまって、抜け出せなくなる。間違いを訂正していたら、金縛りにあった感覚に陥ってしまった。なにが本当なのか、分からなくなる自分が居る。

 そういう意味では、詩「「おにぎり」」は象徴的です。駒村氏のおにぎりの絵があって、括弧書きの「おにぎり」です。「おぎにり」の間違いではないのです。つい「おぎにり」と思いたくなりますが、「おにぎり」です。この「おにぎり」は、絵に描かれているおにぎりではないのです。作者は意図的に「おぎにり」を「おにぎり」と思わせようとしています。私がおにぎりを「おにぎり」と意識するのは、モノがあって、それがおにぎりであると無意識に思ってしまっているからです。そして「おぎにり」と思ってしまうのも、「おぎにり」というモノの存在があって、今度は積極的に誤りを犯すのです。それは、自分自身が生活の中でそういう認識をするように作られて、あるいは作ってきからではないでしょうか。そうしないと、この世界で生きてゆくのは大変不自由です。しかし、実は不自由と思っていることが本当は自由なことで、自由と思っている人間の生き方が実は不自由だったりします。一度、「おぎにり」に捕らわれた私の意識は、もう自由になれないようです。(この段落は、2018年8月5日に誤りを修正のため追記しました。)


 駒村氏は、言葉を使って、物事から言葉をそぎ落とし、言葉以前のことばを伝えようとしているのではないでしょうか。












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