詩誌『霧笛』第133号
久しぶりに詩誌『霧笛』のことを書かせていただきます。この2年ぐらいの間、私は送られてくる詩誌や詩集には目を通していませんでした。理由は、自分が生きるということを否定していたからです。かと言っても死ぬことは無理だと自覚していましたから、ただ時間が通り過ぎるのをじっと我慢して待っていました。なので、ほとんど生活のための差し迫った用事以外は出歩かずに家で横になる日々を過ごしていました。
そんなありさまでしたので、当然に、詩誌『霧笛』と編集者の千田基嗣氏の詩集が送られてきていましたが、私はそれらを、商店街の看板や広告の前を時間が通り過ぎるように、なんの感情を持たずやり過ごしていました。
変なことを最初に書きましたが、何を言いたいのかいうと、久しぶりに詩誌『霧笛』を読んだと言いたかったのです。久しぶりに詩誌『霧笛』(第133号)を読んだ印象は「変わらないな」というものでした。いつものとおりに「生」に対して肯定的な作品が並んでいます。無理をしているのかな、皆んな。などと疑ったりしたくなるのですが、詩とはこういう生きることに対して一所懸命なものからしか生まれないものなのだろうかと考え込んだりもしてしまいます。きっと皆んな、言葉の背後には私が想像もできないほどの苦しみ、辛さ、死にたいと思うほどの痛みを抱えているはずです。それらをそのまま吐き出そうとどうしてしないのだろうかと思ったりもするのですが、そんなことをしていたらせっかくの詩の言葉が汚れてしまうということなのでしょうか。辛い自分がさ…