瀬崎祐個人誌『風都市』第37号(2020年冬刊)
瀬崎祐氏の個人誌『風都市』第37号のことを書く前にちょっと前提を書かせていただきます。ここ数日、私は長尾高弘氏の詩集『抒情詩試論?』の感想を書くために、長尾氏の詩集『抒情詩詩論?』を鞄に入れて少しずつ読んでいます。また、それと関連して長尾氏がかつて「詩の源流」と題して尾形亀之助読書会で講演をしていただものを纏めた記録を再読しています。『叙情詩詩論?』については、近いうちに感想をこの情報短信に掲載したいと思っていますが、まず最初にここで書きたかったことは、今回送られてきた個人誌『風都市』第37号の中の瀬崎氏の作品「城壁を越えるときに、鳥は」を読んでいて、長尾氏がずっと書かれている詩についての思考のことが頭を過ぎったということです。
長尾氏は、抒情詩を書かないようにと思い詩を書いていて、結局、後で読んでみると抒情詩を書いてしまっていることに、詩集『抒情詩詩論?』で自虐的に論じています。感情や思考はあくまで個人に生じるものですが、それがなんの弾みか(詩はほとんどの場合に発表を前提として書かれている。)、他の人の共感を得ると、個人のものではなくなり、やがてみんなのものとなり、気がつけば絶対的なものとなる場合があります。感情や思考がまだその人のもの、あるいはその人のごく少数の知り合いの人との間の共有したものであるときには、違う感情や思考に変わったり、日々起きる出来事に影響され違う感情や思考となったり、自分自身でそのことを否定したり、他人の影響を受け変わったりすることは簡単に起きることで…