yumbo『鬼火』

 かつて、電力ホールのグリーンプラザで yumbo の澁谷浩次が何かのイベントを行った。詳細は忘れたが、あの人が雑多に行き交う通り道にできた停滞した空間に彼のピアノソロの音楽が流れていた。それが、私が彼の音楽と出逢った最初であった。  あの頃、私はキース・ジャレットの初期のソロピアノを聴いていたし、ポール・ブレイのピアノソロ作品『オープン・トゥー・ラブ』も聴いていたと思う。私にとって、その頃、ピアノソロの音楽は、それらとイコールであった。流れていた音楽の印象としては、ポール・ブレイのそれに近いとは思ったが、意外に穏やかなものであった。環境音楽と言ってもよい癒やしを伴った音であった。開放された公共の空間に、違和感なく溶け込んでいたことが、今からすると不思議だった。しかし、意図的にそういう場に合った音楽を作ったというよりも、その演奏は、事前に楽譜が用意されて演奏されているものではなく、すべてが場のイメージを持たずに、演奏者自身の中にある世界の中の刺激において、即興で演奏され、録音されているものという確信があった。  yumbo の『鬼火』(7e.p.レーベル、epcd 092/3)を聴いていて、そんなことが頭を過ぎった。自分は、ほとんど聴いてはいなかったが、初期の yumbo においては、<破壊>という行為がかなり重要だったと私は思っている。遠い昔に電力ホールのグリーンプラザに流れていた音は、そういうものとは全く違ったものであった。  音楽の形態は違うのではあるが、今の yu…

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詩誌『霧笛』第2期第40号

 詩誌『霧笛』が届きました。しばらくぶりに何か書きたくなりました。それで、今、手にとって、ぱらぱらとページを捲っています。ここ数年の間に、詩に対する私の考えは、かなり変わったような気がしています。それは、詩とは何かという定義を考えていたということではありません。自分で自分のことを言葉で説明するのは難しいのですが、例えば、詩は瞬間に気分を発症するものと捉えてみたり、詩の言葉自体に興味がなくなったのに詩のようなものを書き続けていたり、言葉を文字という物質に置き換えてみたり、そういう思考や行為の錯誤を続ける中で、気がついてみると以前とは違った感覚を言葉に持っているかのような状態が続いているということです。  【注】 実は、昨日届いたのは詩誌『霧笛』第121号でした。     それを読み返えそうと思ったら、手に取っていたのは第     2期40号だったということでした。  ですから、詩誌『霧笛』に対する私の感じ方も、以前とは違ってきていると思います。しかし、詩誌『霧笛』の書き手は、それほど変わっていないのですから、結局は私の書くことは、さほど以前のものとは変わらないものになるのは、不思議ではないのです。その意味で言えば、私はさほど変わっていないことになります。  今回の詩誌『霧笛』第2期第四十号で印象的な作品は、西城健一氏の「岸壁」という作品です。この作品の第五連を引用させていただきます。    岸壁にはまだぬくもりが残っていた    あたたかな風が    船体に巻…

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瀬尾雅弘『フレンチポップス・シックスティーンズ イェ・イェと称されるムーブメントをめぐって』

 ここ1年ほど、他人が書いた詩に対する自分の感想を書くこと、詩による表現を読み解くこと又は感じたことを言葉にすることに興味を失っているのですが(こういうことを書いている時点で、また書けるのではないかと考えている自分がいます。)、詩に限らずに、自分の感じたことを、ある程度のまとまりのある文章を書き留めておきたいという意欲は失っていませんでした。  そこで、最近、少し考えさせられる音楽に関する本に出逢ったので、感じたことを書きたいと思います。  一つは『ザ・ビートルズ史(上下)』(マーク・ルイソン著、山川真理・吉野由樹・松田よう子訳、2016年11月20日河出書房新社刊)です。もう一つは『フレンチポップス・シックスティーンズ イェ・イェと称されるムーブメントをめぐって』(瀬尾雅弘著、2017年2月20日彩流社刊)です。  『ザ・ビートルズ史(上下)』については、かなり話題になっていた本なので、読まれた方も多いかと思います。私は、これまでビートルズに特別に興味を持つことはありませんでした。解散前のビートルズについては、その存在をテレビのコマーシャルに映る映像とともに、僅かに時代を共有していますが、当時小学入学前だった自分にとって、微かに記憶している程度です。その後も、音楽への興味は人並みに持ちましたが、ビートルズの音楽は、他のミュージシャン、例えばシルビー・バルタンとかミッシェル・プルナレフなどの、自分にとってみれば時の流れと共に色褪せてゆく流行の一つに過ぎませんでした。ただし…

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